six-9のブログ

おっさんのブログ。エロゲとかアニメとか。

VTuberを好きになった。渚と汐を養う生活の良さが腹落ちした。

長い文章を書くことができる脳の状態にあることが大変少なくなってきた。
ツイログもあまり仕事をしておらず、2020年7月以降のログが取れていない。なんてこった。

ガメラ2レギオン襲来を観た。シン・ゴジラのようなカットとタイミングが気持ちよかった。ストーリーも面白い。

たいてい年末か年始には、その年やったゲーム・観た映画・アニメ、読んだ本・漫画をまとめるのだけれど、今年はそれすらもできなかった。脳がおしまいになっている。老化。

 

さてと。

 

久しぶりに、数ヶ月ぶりに頭の中がスッキリしている。
薬を飲んだふりをしてこっそり捨て続けていた学のような気分だ。
この世界を覆っていた膜のようなものが取れている。世界はこんなにも美しい。
でもこの時間が長くは続かないことも知っている。


以下、Vtuberについて思ったことと人生。Twitterから転載。
2016年に上海のホテルで「俺はいつか死ぬ」ということを受けれいたことを思い出した。脳と覚悟は自宅ではキマらない。旅先で一人になったときにのみ、働く脳の回路がある。

 

ホロライブ(具体的に言うとバーチャル大分出身の乳牛)の切り抜き動画14時間くらい見て勝手に感情移入して勝手に好きになってきた。ホロライブさんのおんなのこさんVTuberさんたちは、みんな苦労していた系のまとめ動画も観た。こんなにかわいいのにこんなに苦労していたんだなあ、などと思って勝手に好きになってしまった。
これはポルノを見たときと同じ脳反応。感動ポルノ。
麻枝の泥臭い家族観を思い出した。
VTuberの切り抜き動画見ていたら、これまでどこか嘘くさいと思って毛嫌いしていた麻枝作品の日常描写・家族描写がハラ落ちした。

以下、ツイッターから転載。Twilogも無いしTogetterとか使えばいいのかもしれないけど。

自分より若い大胸筋の大きなカワボのおにゃにょこがたくさんお話してるのを何十時間も聴いていれば好きになるのも応援したくなるのも道理。

おっぺえの大きいえっちなお姉さんたちの動画見て、後方腕組み彼氏面で「団長も偉くなったな」と思った。声帯結節の話も聴いた。こんなに長時間配信していれば喉もおかしくなるだろう。伊集院は毎週2時間のラジオでさえ喉ををやられていた。

自らの身体をも省みないその献身はある種の美徳でもある。

それはそれとしてホロメンの彼氏とか結婚とかが暴露されたら死ぬ。ユニコーン中田ことどうも俺です。

結局のところ、何万人、何百万に支持されて、数億円の収入があったところで、その人生に降り積もる時間は有限であり老いと病と死は万人に平等だ。彼氏との性行為にも気を遣い、異性の匂いを脱臭して暮らす日々。

そんな日々の果てにあるのは、どんな果実だろうか。

同じことは船長の喉にも起った。自己犠牲と悲嘆と放心は最高の娯楽として消費された。俺にとっても愉悦。

その醜悪性に気付いた後、彼女たちの5年後、10年後、20年後を思った。

バンドマンと俳優は予後が悪い。では甲子園球児とアイドルは? Vtuberは?

自らの身体を犠牲にする精神。甲子園球児もそうだ。17,18歳のショタが将来ボールを投げられなくなるまで骨と筋を酷使する。それを美談として歓迎する。

甲子園で高校生が時間と体をいじめてるのを見てビール飲むのといっしょじゃん。ということに気づいて悲しい。

 

なんて醜悪。感動ポルノ。

 

献身の美徳は麻枝の十八番だ。観鈴ちんは世界を救い、すべてを失った。往人は、ただ寄り添い、その美徳である最後を見届けるしかなかった。では朋也は? 表舞台に立つことなく、ただ渚と汐を思い電柱に登る。ここにも自己犠牲があり、道徳がある。

どんなに華々しい活躍の裏にも日常があり、愛がある。配信者としての栄華は何十年も続くものではない。続くとしても、何十年も続く栄誉はその時には日常である。
一瞬の煌きである配信者ではなく、その背後を埋める濃密な日常を支えることこそが、真の愛情なのではないか。


愛情と、そして贖罪としての労働と育児。それは報酬というよりは刑期としての側面が強い。真の愛は施しである。
配信者へのスパ茶は金銭的なものではあるが、時間的なものではない。支えているという幻想を購入する行為。
汐が産まれ、育つ数十年という時間は、一瞬の煌きである赤スパと対極にある。


ようは、配信者がチラ見せするカッコ付の日常描写により、かえって配信に出せない濃密な日常を想起させられた。ミロのヴィーナス。
日常描写といえば、セカイ系の設定で妊娠出産育児を描いたCLANNADを惹起した。カッコ付の日常描写は、本来の日常描写を制限することによるが、

CLANNADの日常描写は圧倒的なまでのディテールの欠如(媒体によるものもおおきい)にも関わらず、生活と日常とウン十年スパンで延びる人生を過ごすという日常のエッセンスを醸し出した。
ということ。

配信者の日常描写つながりでCLANNADを思い出して、日常とはゴールテープを切った先にある苦しみだな、ということに思い至ったということ。

 

ひたすら騒ぐ形式の長時間配信(ホラゲーなどのプレイ含む)が喉へのダメージを含め長期的に続けられるものでは無いということは配信者を含め皆気づいているのだと思うが、一旦その形式での高評価による陶酔に脳髄が浸かってしまうとなかなか抜け出せないものなのかもなあ。

 

月ノ美兎ちゃんが一時期配信全然やらなくなったときに、彼女はこの問題に対して彼女なりに対応していこうと決めたのだなあ、などと思った。
頭良さそうだもんね。月ノ美兎ちゃん。

 

ノー・カントリーを観て、ザ・ロードを読んだせいかもしれない。火を絶やしてはいけない。

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終のステラとBlack Sheep Town、そしてすずめの戸締まり。たいそう面白いものをたくさん読んだり観たのに、全然感想をまとめられなかった。悲しい。