- WifiルータはVPN対応のものをレンタルすること。
- 百度マップ(百度地图)が超便利。
- 手荷物検査にビビるな
- 交通カード(交通卡, jiao tong ka)は便利なので買っておくと良い。
- タクシーの行き先は路の交差点で伝える。
- コンセントプラグ形状変換アダプタは基本必要なし。
劇場公開の数日前にTwitterで前島賢のnoteが流れてきた。本編と同じくらい魅力的なnoteなので一見の価値がある。*1
多少Twitterでネタバレを喰らいつつ、見てきた感想と、原作を再読して罪と罰について理解したことをまとめる。
以下、ネタバレあります。
しっかし、原作読んでないとところどころ、分からないんじゃないかなー、と思った。ワシントンでのユージーン・クルップスのセールスレディとか、説明がないとただの女が笑ってるだけじゃん。
映画は映画で映像かっこよいしあのキャラが動いて喋ってる! という感動で良かった。原作にあった母親の死が省略されており、また、特徴的な「ぼく」のモノローグがバッサリ省略されているので、原作からの印象とはほとんど変わっている。格好良いアクション映画みたいになっている。
母親の死についての話が省略された関係で、クラヴィスの罪と罰に関するエピソードがごっそり省略されていた。例えば。
アレックスが自殺じゃなくて、戦闘適応感情調整と虐殺文法の干渉により錯乱してクラヴィスに射殺されたり、ウィリアムズの結婚生活の危機でカウンセラーに通った話が省略されていたり*2、それになにより、クラヴィスとウィリアムズがドミノ・ピザとバドワイザーを飲みながら見ているのが「プライベート・ライアンの冒頭15分」じゃなくフットボールの試合になっている。
ウィリアムズと一緒に呼び出されたペンタゴンでユージーン・クルップスの女が作戦をプレゼンするシーンが省略されていたり、見ているムービーがアフリカの内戦指導者ではなくアレックスを射殺したクラヴィスの主観映像だったりする。
他には、プラハでルーシャス一味に捕まったときに、ルツィアがいなかったり*3、インドでのヒンドゥー・インディア+ジョン・ポールを拘束した後に襲撃されるのが、列車ではなくヘリだったりする。
アフリカ、ヴィクトリア湖畔でジョン・ポールと対峙するシーンでも、ジョン・ポールの書いた演説草稿と虐殺文法のメモ帳と、虐殺文法のエディタが入ったSDカード*4を見つけるように変更になっていた。原作だと虐殺文法のメモに記載されていたリンクに虐殺文法のエディタがあるというネタだった。
クライマックスシーンも、ジョン・ポールを生きてアメリカへ連れ戻そうとしてジャングルを歩いているところを特殊検索群i分遣隊のメンバーにジョン・ポールを射殺されてしまう話が、劇場版だと『僕の眉間を撃ち抜いて合衆国に虐殺の文法を播種してよ〜』って懇願する話になっていた。いや、まあ、二時間でまとめるためには仕方ないのはわかるけど、もはや原作のテーマとは別の所に行ってしまったような気がする。原作の魅力である虐殺文法のギミックとジョン・ポールの動機と魅力的なバイオハイテック兵器群で押し切った映画だった。
罪と罰についての考察は「虐殺器官 罪と罰」とかでググればいくらでも出て来るし、例えばGoogle検索上位で以下のリンクなんかが原作ページの抜粋付きでまとめてくれてる。
『虐殺器官』 抑圧者としての母、そして父 - doitakaの日記
「罪と罰」というのは、ハヤカワ文庫版の帯「現代における罪と罰」から始まったフレーズだと思われる。確かに、クラヴィス・シェパードこと「ぼく」はしきりに母親の延命措置停止、及びそれにより意識されることになったそれまでの職業的殺人の罪と罰を求めてルツィアを探し回ることになる。アレックスの自殺も母親の死と合わせて罪のきっかけになる。
戦闘適応感情調整により殺人の罪の存在有無を疑っている「ぼく」。ルツィアとその後の心理技官との会話に見られるように、戦闘適応感情調整=殺すことを選択したことはまぎれもない「ぼく」の自由選択の結果である。罪はまぎれもなく「ぼく」のものだと認められる。しかし、プラハでのカフカの墓をめぐるデートと、その後のルーシャスの酒場での「ぼく」の母親の死に対する告解により罪を認められた後に、ルーシャスに捕まり、ルツィアを尾行しているスパイであることを知られてしまう。ルツィアを騙していた罪に対する罰を、そしてその罰にかまけてこれまでの「ぼく」の殺人についての罰を求めて、インド、そしてアフリカの虐殺文法の播種地へと「ぼく」は進んでいく。
アフリカ、ヴィクトリア湖畔のゲストハウスの二階で、ついにルツィアと再会する。
しかし、ルツィアにより赦しを得る前にルツィアは射殺され、ルツィアの最後の願いとなってしまった、ジョン・ポールを生きて裁判にかけて真実をアメリカ合衆国民に知らせるという目的のために連行している途中で、射殺されてしまう。完全な空虚とともに、「ぼく」は合衆国へ戻る。
アレックス、ルツィア、ジョン・ポール。そのすべてが遠い過去の出来事のように思い出された。あのとき覚えたはずの感情、あのとき得たはずの洞察。そのすべてがリアリティを失って、壁に隙間なく貼り付けられたスナップ写真のように、全体のディテールのごく一部へと還元されてゆく。(第五部)
追い打ちのように、母親のライフログで、母親の視線=愛情が存在していなかったという事実に打ちのめされる。そして、「ぼく」は自らの罪、そしてジョン・ポールの罪をも背負う覚悟を決める。虐殺文法で語った演説はニュースクリップで繰り返し再生される。
作戦が終わって、ぼくはからっぽになったと思いこんでいたけれど、そこが真空ではなかった。真の空虚がぼくを圧倒した。
そんな空虚にジョン・ポールのメモは実にぴったりと嵌った。もしくは、ジョン・ポールのメモのほうが、ぼくの空虚を見出したのかもしれない。
(中略)
ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険なアメリカという火種を虐殺の坩堝に放り込むことにした。アメリカ以外のすべての国を救うために、歯を噛んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。
とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。ジョン・ポールがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。 (エピローグ)
前島賢がゼロ年代の文脈で語る。その事自体は自然なことだと思う。
一読目では、FPS的なモチーフと虐殺文法に代表されるSF的なギミックに翻弄されてしまったが、あらためて「罪と罰」というキーワードを追っかけながら小説の構造を読み解いてゆくと、ゼロ年代小説に特有な現実からの疎外とコミットメントが浮かび上がってきた。匂いのレイヤーでは感じていたことだが、あらためて振り返ってみるとよくわかった。
僕が西尾維新《戯言シリーズ》の新刊を追っかけていた02年頃、本屋では福井晴敏の文庫版『亡国のイージス』が平積みで「よく見ろ日本人、これが戦争だ」なんてCMが流れていた。だが仮にゼロ年代のオタク青春小説が極東情勢や自衛隊の海外派遣といった具体的で同時代的なリアルを「よく見て」しまったら、その瞬間、現実感の希薄さという最も重要なリアリティを喪失してしまう。だがそのリアリティを基盤にし続ける限り、題材は「世界の終わり」や「時間ループ」、「真実の愛」といった抽象的なものに限定され、縮小再生産に陥ってしまう……ゼロ年代の「オタク青春文学」は、そんなアンビバレンツを抱えているように見えた。「リアル・フィクション」の帯とともに刊行されたハヤカワ文庫JAのなかで、桜庭と新城が地方都市を、あるいは桜坂と海猫沢が格闘ゲームやヤンキー文化とローカルな題材を選んだのも、いかに「固有性」と「青春小説としてのリアリティ」を両立させるか、という問いからだったように見える。その問いにまったく別の方法で見事な答えを見せてくれたのが『虐殺器官』だった。
世界には戦場という究極の現実があり、しかしそこから疎外された僕らは虚構と戯れるしかない……伊藤計劃が『虐殺器官』で否定したのは、「オタクの青春文学」の書き手、読み手たちがどこかで共有していた、この素朴な二項対立だったように思う。痛みを認識はしても痛さは感じなくする認知科学的処理、人間の倫理に関する脳機能を停止させる医学処置。そのようなSF的な――けれど十分に現実的なガジェットを用意することで、伊藤計劃は、戦場からもリアリティを奪い去って見せた。そうして生まれたのが、前述の、まったく軍事冒険SFの主人公らしからぬクラヴィスだ。傷ついても痛みは感じず、良心をあらかじめ麻痺させられ、現実の戦場に立っているというのに、まるでFPSゲームのプレイヤー程度の現実感しか得られない。ライトノベルの主人公のように自意識過剰な、戦場ですら大人になれない青年。そんな主人公の目を通じて語ることで、『虐殺器官』は、9・11以後の世界像を克明に描く軍事冒険小説のリアルと、現代的な青春小説における不確かなリアリティを両立させることを可能にしたのだ。そんな小説が可能だとは、僕は本書を読むまで、まったく想定していなかった。
ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』 ~以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?~(前島賢)|前島賢|note
*1:リボルバー・オセロットのカメオ出演については気づかなかった。ググって引っかかった以下のリンクを参照して気づいた。インドでのネタか。東北大学SF研wiki - 虐殺器官
*2:これがあるのとないのとでは、ヴィクトリア湖畔でウィリアムズと撃ち合いになったときの「(ジョン・ポールとルツィアを殺すのは)モニータと赤ん坊のためだ!」というウィリアムズの台詞の重みが変わってくる。
*4:これはゼリー剤を巻いて飲み込むことで持ち出したようだ。序盤の東ヨーロッパで敵兵に偽装するときに使った手段と同じように。
Twitterで"人が集まらない!!"というRTが流れてきたので、ちょうど時間も空いていたし申し込んで行ってきた。正直、珍獣「井上純一」を観察する二時間で、想像と異なっており微妙だったが、おそらく"希有馬屋フリートーク#9 "というように9回もやっているのだから、これはこれでありなのだろうな、と納得することにした。*1
井上純一はトークショーとして面白い話をしようという感じではなく、ただ喋りたいことをステージの上で喋っていただけ。じゃんぽ~る西氏は、やはり文化人なのだなあ、トークショーでも人を楽しませる話ができるなあ、と思わせるのに対して、井上純一はただの珍獣という印象だった。*2
会場はたぶん百人以上入っており、ほぼ満席で、男女比も半分くらいだった。おそらく、トークショーのタイトルにもある通り、結婚、子供を作ること、子育てなんかの話を聞きに来た人が多かったのではないか。
かくいう俺も外国人と付き合う経験があったので、中国嫁日記も、もちろん、モンプチもすごく楽しく読んでいたし、その話が聞きたかった。
しかし、開始19時で、21時までの2時間だったが、井上純一が中国(共産党)批判と漫画批判を二時間延々と続けた。
じゃんぽ〜る西氏はたまにコメントを求められて少し話すが、すぐに井上純一のペースになる。さすがに会場が冷めきっていることに気づいていたたまれなくなったのか、後半で、じゃんぽ〜る西氏が「今日はみなさん、国際結婚とかの話を聞きに来たんじゃないですか?」と苦笑いで観客に話を振ったら、満場の拍手(笑)*3、さらにこのうえ小説を書き始めているとのネタを披露して「これ以上俺の領域に攻め込まないでくれー」と笑いを誘っていた。
以下、ポツポツと雑記。
じゃんぽ〜る西氏がパリに行った理由が、僕の今の年齢とリンクしていて、ぞくっとした。
30歳で漫画の仕事も先が無いな、と思って、なんとなくワーキングホリデービザってあるなあ、って思って申し込んだ。イギリスに行きたかったのに年齢制限が25歳までだったので諦めた。当時ちょうど、バンドデシネが流行っていたので、パリに決めた。
漫画家の地位についても面白いことを言っていた。
「向こう(フランス)の漫画家は日本の漫画家みたいな卑屈さがないですよね。社会的地位が高いというか、社会的に削られないというか。」
以下は、トークショーの前のサイン会でじゃんぽ〜る西氏に書いてもらったサイン。真ん中が僕の似顔絵。すげぇ嬉しかった。*4
最後に、福満しげゆきに対する井上純一のものすごい対抗意識に軽く引いた。非モテと
オタクと結婚と嫁ネタでカブっているせいもあるのだろう。だけど、たぶん自意識漫画っていう領域では
福満しげゆきの方が圧倒的なので、木にしなくても良いのでは、と思った。*5
あとは、井上純一の印象に残ったセリフとか。備忘録代わりに書いておく。
*1:僕はもう次があっても行かないが。
*2:じゃんぽ~る氏については、あまり喋らなかったから期待値が上がっているだけかもしれないが
*3:トークショーでは拍手が唯一のコミュニケーション手段)
最後に漫画のネタになっていたフランス人の鼻を高く描きすぎると指摘されることなどを話していた。奥さんのほうが収入が高く((ジャーナリストとのこと
*4:僕がサイン一人目で、買った本二冊ともにイラストつきでサインしてもらった。緊張してて全然喋れなかった。。。じゃんぽ~る氏が「今日はどういう経緯でサイン会の存在知ったの?」って話を振ってくれたが、「フヒッ、ツ、ツイッタで、、、フィ」みたいになって我ながら挙動不審だったと思う
*5:ふたりとも、顔が横長になるキャラデザでよく似ていると言われるらしいが、福満氏は昔からだけど井上純一はただのキャラデ。井上純一は萌え絵をしっかりかける。
特に書くことがあるわけではないが,リハビリのために書く.きまぐれに横で妖怪ウォッチを再生してるから,ジバニャンがうるさい.
どうしたら良いのか,いろいろと迷っている.会社に入ってから気づいたら三年.だいぶ,調子が良くなってきたように思う.昼間に目覚めてこんな風にエントリを書けるようになったのがその証拠.
どうにも,生活環境が大きく変わってから,調子が崩れてきたように思う.調子が崩れてると,劣等感で誰とも喋りたくなくなるし,人との関わりがばっさり抜け落ちてゆく.思考が発散してまとまらん.
これ,わりと精神的に参っている人の特徴かもね.瀬戸口でよく出てくる,あたまのなかがぐちゃぐちゃとしていて,思っていることが心のなかにわだかまっているのにうまく言葉に出来ない.状態.
必要なことはなんだろう.このブログを立ち上げた時もそうだった.なにかしらのアウトプットをすることで,自己内の安定を図ろうとしていた.
メガネを変えた.三年経つうちに視力がおちてきたようだ.これまで見えていなかった部屋の隅の埃や台所の水垢に気づく.電子レンジの横に貼り付けてある朝木貴行のシールにも改めて気づいた.そういえば数年前の新年にLOを買った時に特典でついてきたかも.
調子の悪かった頃は,休みの日は布団の中から出れなく,食事もトイレも行く気にならなかった.幸いなことに,食事を取らないためトイレにいく必要もそんなになかった.必然的に部屋も荒れて,埃が転がっている.食器も流しにたまっている.どうだかなあ.そういうのを見るたびに,さらに気力が減退していく.
とりま,エントリを出せるくらいには回復してきた.しばらくはこんなふうにだましだまし生きていくしかないのかもしれない.
そう,まだ生きています.
生存報告.
実に三年ぶりに二十分間耐久筆記に挑戦する。
三年!なんと恐ろしい。三年前、2012年の2月、俺はヒミズを見ていた。らしい。就職への漠然とした不安と何よりも実績のまるでない薄っぺらな人生経験に依拠した無根拠な自信。そう。あの頃、俺には自信があった。いない歴=年齢の童貞で、特に人に自慢できる経歴もなく、志望していた出版社からは軒並みお断りの連絡をもらっていたのにも関わらず。唯一、国際誌へ一報出したことがささやかな自慢だった。
東京!!東京へ出ればいろんな可能性があり、女の子と浴びるようにSEXできる!
まるで大学進学前の俺である。
結果、大したことはなかった。もちろん、田舎とは違って居酒屋とかバーとか違法風俗店とかに外人がふつーにいてカオスだし、そーゆー外人どもがやつらのハラールだったりする食材を売ってる店が各駅にあったり、レストランがあったりする。なんちゃっての仕事で英語だったり中国語だったりでどーでも良い事務的なメールや会話のやり取りをする。秋葉原にはけっこうまともな電気電子部材が転がってたりする。もちろん中古のエロゲーだったり同人誌だったりもだ。
だからどうだというのか。人間関係? やはり変わらない。職場と以前からの友人と。おしまい。妙なつながりの合コンみたいなイベント数合わせで何度か参加したが、どうにも続かない。基本的に受け身だから。あと気に食わない奴は気に食わないから。
書き出してから懐古と後悔しかないこの散文をどこに着地させればよいのか、迷う。
大切なことは、そう大切なことは三年前に抱えていた自信だ。今の俺には自信がない。これが全ての敗因だ、とおもう。何をやっても、誰と話しても卑屈になってしまう。
三年前の自信の根拠は何だったのだろう? 未来だ。無根拠な、明日の俺は今日の俺よりも凄くなってるはずだ、という思い込み。果たして、明日どころか三年も経ってしまって、凄くなるどころか矮小になり、学生時代に軽蔑していたダサいおっさん以外の何者でもなくなっている。絶望。
どうしてこうなったのか、という後悔と、将来への期待が持てないことによる無気力。俺はどこへゆけば良いのか? 何を目標とすればよいのか? 苦しい。息苦しい。以上、現状の分析。対策は無い。無いと思う。どこかにあったのだろか、対策が。
感動した.
「住田ガンバレ!」
ラストシーンで,住田が川から出てきたシーンは感動したし,最後に二人で走ってゆくのも良かった.
映像に関しては,「冷たい熱帯魚」でもそうだったように,圧倒される.
暴力描写に裏付けられた強い「生」へのメッセージ.
3.11後の石巻市のカットも,圧倒的な現実感,というか,ままならない人生というものを象徴していて,涙が出る.
そう.瓦礫となった街を見たときに,自然と涙が溢れる.
そういったものは,少なくとも僕は震災後の仙台港周辺を通ったときに経験したし,共感する人もいるだろう.
ストーリーに関しては,ドストエフスキーの「罪と罰」が強く想起されるものだった.
父親殺しに悩む主人公.主人公は自信家で,人とは違う,と思っている.
しかも,父親を殺すときに,一回ブロックを落としてからまた拾う,なんてことも「罪と罰」に忠実だった.
最後には,少女(処女)へ懺悔し,少女の導きによって自首し,罪を償うことを決意する.
作品が悪いわけではないが,「罪と罰」の印象が強すぎて,ストーリーのインパクトが薄れてしまったように思う.
とにかく,暴力描写に富んだ作品であるにも関わらず,いや,そのせいかもしれないが,鑑賞後には何かに急かされるような,衝動的かつポジティブな気持ちになった.背中を押される,というよりは背中をぶっ叩かれるような激励を感じた.
興味のある人は是非見てください.
もう発表から3年もたってるんですね...田中ロミオを嗜好する者としてこの3年前,楽しみにして来たRewrite.
やっとプレイ終了.まだMemoryが全部埋まってない(Friend*1とQuestが虫食い)のだけれど,一応最後のエンディングまで見たのでとりあえず雑感をメモしておく.
[Caution] ネタバレ全開なので避けたい人は見ないでください.
*1:よく考えたらFriend"s"にしないとおかしいよな...ま,これはスタッフのちょっとしたミスだろうけど