six-9のブログ

おっさんのブログ。エロゲとかアニメとか。

第二十八回文学フリマ東京 2019/05/06

行ってきました。

目当ては感傷マゾ本だったけれど、案外楽しくて、たくさん買ってしまった。おそらく自分史上最大額・最大数の購入だったのではないか。会場もいつもの東京流通センター第二展示場ではなく、第一展示場に変更となっていた。一フロアの開催で、回りやすかったが、飲食店ブース(クルミドコーヒーとターリー屋)がやや手狭だった点、見本誌コーナーが展示場とやや離れていた点が気になった。

とりあえずざっと読んだ記録を記載。

 

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購入品一覧

 

 

 

エロマンガ統計 2018 牧田翠

  
オススメのエロマンガ教えて、のコラムで火鳥の「快楽ヒストリエ」を挙げてた。確かに無難なチョイス。真似しよう。
一冊作るのに300時間(3ヶ月)かかっているというらしいが、確かにそれも頷けるだけの情報量。すごい。
度々、デイビのエロマンガが引用されていた。デイビのエロマンガは、女性主導で、性器性交が描かれない。これには俺も確かに新しい流れを感じていた。
本当に、うんうん頷きながら読んでしまった。
コンドームの使用描写が増えている点も、感覚レベルでは思っていたが、データとしても裏付けが取れた。紙面もカットイラスト、デザインともにプロレベルの仕事。非常に読みやすい。
 
表13では、視点ごとに主導権を分けた結果を載せています。この結果を読み取ると、男性視点だと女性主導が多く、女性視点だと男性主導が多いということがわかります。つまり、エロマンガは受け身的な視点で読むパターンがやや多いという傾向が見えてきます。
『08 性行為に誘うのはどちらから? 視点キャラでない性別が誘う 表13 視点キャラと主導権 受身の姿勢で物語を読む傾向』
 
男女キャラとも、後半で性器が出てくる(表28,29)という傾向は同じになっています。しかし「顔」については差が大きく、女性の顔は全編にわたって描かれ続けているのに対して、男性の顔は中盤以降、登場しなくなっています。つまり、性器が出てくると、男性の顔の描写はされなくなり、男性の個性=性器になってくるといえます。この現象は商業上の美少女エロマンガだけではなく、同人誌でも見られることから、エロマンガ統計シリーズでは「性器と顔の交換」と呼んでいます。
14 男女の裸体はどう描かれるか 男性器は顔の一部です 男の個性は顔でなく性器で表現される
 
今回、集計の下読みをしていて気になったのが「避妊」の描写です。以前(2013)に集計したときは少なすぎて集計を止めていたのですが、気になって再び集計してみると、避妊具(コンドーム)の描写割合が全体的に増加していました(表30)。
15 エロマンガで避妊はしているのか コンドームが使われるように ゴムを使うのは優しさ? 快楽? 

 

 
 

カラメルカラム

エスちゃんのセリフ集とアクキー。アクキーは表と裏で表情が変わるよ! もっと罵ってエスちゃん!
 
 
 

LOCUST VOL.02 FAR WEST 東京 八王子・福生奥多摩

たまたま北出栞(@sr_ktd)さんの名前を見たので、購入。
個人的に、奥多摩氷川キャンプ場に行ってきたばかりだった。見覚えのある赤い鉄橋の写真もあり、運命的なものを感じた。
LOCUST meets MESS --途中下車のすすめ case.立川
これしか読んでいない。
とある魔術の禁書目録ガッチャマンクラウズの舞台となったことから、立川をアニメの「聖地」として読むというもの。なお、ファーレ立川というパブリックアート群があるのを初めて知った。
立川がアニメの風景に使われるようになったのは、実は自然発生的なものではない。冒頭紹介した『とある魔術の禁書目録』において借景されたことに気づいた自治体により、事業として積極的に誘致されるようになったという経緯があるのだ。
 
一ノ瀬はじめの趣味であり、本作の最終話のタイトルにも付されている単語は「collage(コラージュ)」である。多様性に満ちた世界をむやみにフラット化せず、「デコボコ」した状態をコラージュ作品のように楽しもうというメッセージがここには表れている。本作においてガッチャマンとは「敵」を打ち倒すという合目的性に憑かれた「正義の味方」ではない。「平」和=フラットさをもたらす救世主ではなく、世界の「デコボコさ」を肯定しながら「うまくやっていく」触媒のような役割を果たすものとして、ヒーローという存在が読み替えられているのである。

 

最後は少し強引に立川とアニメを結びつけているように感じたけれど、写真もキレイでデザインもしっかりしたプロの仕事で、非常に読みやすかった。まだ読んでいないが、奥多摩についての文章も非常に面白そう。見出しのみを抜粋しておく。「民話が語りつぐもの」「境界の写真を求めて」「東京に襲来する」「異界の作法」
 

アニクリ ANIME CRITUQUE vol.6s アニメにおける線 監督 湯浅政明総特集

アニクリ ANIME CRITUQUE vol.9.0「監督 山田尚子」 総特集号

 

通称「感情マゾ座談会」の内容が気になっていたので、買えてよかった。 

 
 

感傷マゾ vol.02 最高の夏コンプレックス特集号


*1

めちゃくちゃ性癖にハマった。以下のコンテンツは読んだ。とても良かった。最高の夏コンプレックスとは何か、サマーコンプレックスについては、ともに感傷マゾという感情・体験を言語化するのに、そうそうそれそれ、という内容だった

 読んでいて、「プロのデザインが入れば、もっと読みやすくなったのに」と悔しい思いがあった。コンテンツは最高。

  • 00. 最高の夏コンプレックスとは何か
  • 01. 三秋縋インタビュー サマーコンプレックスについて
  • 02. かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインの物語
  • 03. 「最高の夏コンプレックス」と精神的欠損に関する一考察
  • 06. 君の嘘、思い出の君 あるいはマゾの話 

感傷マゾとは、存在しなかった青春への祈りです。
00. 最高の夏コンプレックスとは何か

 

四季の中でも、なぜ、夏を強く感じさせるものを見る度に、コンプレックスを刺激されるのでしょうか?
三秋 よりマゾヒスティックな解釈を採るなら、「夏という季節は若さや活力や可能性に溢れていた頃の自分を想起させ、現在の老いや限界を意識させれるから」なんてのもありだと思います。エモさは、どのようなシチュエーションで生まれるものなのでしょうか?
三秋 構成要素の大部分が独立では非情緒的だけれど、それらを総体として捉えたとき、断片の単なる総和からはかけ離れた強い情緒が感じられるさま、とでもいうか。「相思相愛だったのに告白できなかった女の子」の場合、終着点は「後悔」なんですけど、その後悔が全体に遡って適用されることで「相思相愛」の価値を相対的に引き上げている。そういう迂回によって初めて生じ得る美しさや好ましさに対して抱く感情が、「エモさ」の核なんじゃないかと踏んでいます。
01. 三秋縋インタビュー サマーコンプレックスについて

 

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裏表紙の感傷マゾグラフ。ブレードランナー2049、ファイトクラブ新海誠、ここさけ、など、いわゆる感傷マゾとひとくくりにされそうなものを分類している。

 

 
 

エトセトラ VOL.1 SPRING/SUMMER 2019 田房永子 責任編集 特集 コンビニからエロ本がなくなる日

 
毎号、新しい編集長がいちばん伝えたいテーマを特集するフェミマガジン創刊!
大手コンビニチェーンが、2019年8月末日までに「成人向け雑誌」の販売を中止する方針を決定。
私たちの生活に欠かせないコンビニという場所に「エロ本」があったこと/なくなることについて
田房永子が編集長となって、二度とないタイミングで60人のリアルな声を集めました。
作家や漫画家、書店店長、成人誌製作者からの寄稿他、一般投稿による40人の賛否激論フォーラム、各社コンビニへのアンケート、もちろん田房永子のエッセイ漫画も!
身近なテーマからフェミニズムを考える、新しい雑誌の誕生です。

(目次)
特集/コンビニからエロ本がなくなる日
寄稿
小川たまか/北原みのり/伊野尾宏之
デジスタ小保方/ドルショック竹下/武田砂鉄
瀧波ユカリ/水谷さるころ/少年アヤ
安達茉莉子/高橋フミコ/清田隆之
一般投稿40人による賛否激論・投稿フォーラム
漫画
かつてコンビニにはエロ本があった
コンビニに抗議できなかった話 田房永子
アンケート
「コンビニからエロ本がなくなること」について、コンビニ各社へお尋ねしました。
連載
編集長フェミ日記 2019年1〜2月
LAST TIME WE MET 彼女たちが見ていた風景 宇薄山喜久子
私のフェミアイテム 長田杏奈
NOW THIS ACTIVIST 福田和子
etc.bookshop通信
 
中身は特にめぼしい記事もなく、寄稿・漫画はエッセイにとどまり、その他のコンテンツは一般投稿40人の感情、アンケートについても、コンビニ各社の紋切り型の回答を記載しているだけ。
一般投稿のほうにも鋭い意見があった。業界の人などの投稿も拾っていたため。
デザイン・漫画の見栄えはさすがプロレベルで、読みやすかった。

新しい情報としては「エロ本の作り手にお話を伺う中で見えてきた巨大構造
」が面白かった。そもそもコンビニエロ本は、コンビニ業界からの要請によって作られた。コンビニエロ本はキモカネ(キモくて金のないオッサン)に向けたものであり、それらの購買意欲が衰えた今、単純に経済的な理由によりコンビニから切り捨てられる。
また読者層も年々高齢化していて、昔は女子高生や女子大生が好まれていたのが、今はもっぱら熟女や人妻が人気だという。
レポート エロ本の作り手にお話を伺う中で見えてきた巨大構造
 

あるエロ本の編集者と話していたとき、「イッたことある?」と聞かれたので、「えっ、あります」と即答したことがある。しかし彼は、まるで私の返答が聞こえなかったかのように、「女がイクとはどういうことなのか」について自説開陳オナニーを始めた。「イクときって、今のがイッたのかも? って曖昧な感じじゃなくて、はっきりとわかるものだよ」と優しい表情でこすり続け、「たまかサンも、いつかイケるといいね」でフィニッシュ。
コンビニのエロ本は誰のエロ本なのか 小川たまか

 

 

風俗大好きお姉さん 

デザインも素人で、文章も読みづらい。けれど、その生き方がハードすぎて、思わず読んでしまった。コンテンツ力の勝利。
 
私の、風俗で働いた17歳から22歳までの五年間は青春でもありました。
 
風俗にくるお客さまは『性行為』に飢えているのではなく、この『肯定的ストローク』に飢えているのではないか、とふと思いました。
 
 

家電OEMの会社で働くあなたのための参考書-常盤-平蔵

 
内容紹介
OEM請負のものづくりの世界で働き始めた新人に、この業界で生き延びるための参考となる情報をもたらすことがこの本の目的です。あれ?なんかおかしいぞとか、どうなってるんだこれは?と思うようなことでも、その裏側にある理由や筋書きを多少なりとも知っていれば、人間としてその問題に立ち向かうことが出来るかもしれません。そのために必要な情報はどうやって入手したらいいのか?それを考えるための参考書として役立つことを願って止みません。
目次
はじめに
第一章 入社まで
第二章 OEMとは
第三章 手作り方法のいろいろ
第四章 日本での仕事
第五章 実際の仕事(掃除機)
第六章 中国での仕事
第七章 中国での生活
第八章 中国での生活(ダークサイド)
第九章 それぞれの製品について
第十章 OEMで働くことの問題点とは?
あとがき
 
著者紹介読んだら、この人、博士じゃん。すごい。kindle unlimitedに登録されていたので、電子書籍版で購入すればよかった。少し後悔。
OEM製品の一つについて、その仕事の流れが詳細に記載されていて非常にわかりやすかった。中国(深センのようです)での仕事についても、細かく記載されていた。
OEMとODMの違い。OEM請負企業のメリット・デメリット。読みやすく、含蓄深い内容だった。2015年までの話なので、中国の状況については、2019年の今となっては少し古くなってしまっているかもしれない。
 
 

假面特攻隊 竜騎士戦隊リュウソウジャー序盤評

各スタッフやキャストの情報を記載していてくれて助かった。文体が、感想と情報を混ぜこぜにしていて読みづらいのが難点だが、必要な情報をある程度拾うことができた。所謂オタクの早口状態。『速報』というのだから、ある程度は仕方ないのかもしれない。せめて見出しをつけてほしい。
カットの人は文章書かないのね。
マスターレッド・マスターブルー・マスターピンクのキャスト、リュウソウ族の長老など、往年の特撮ファンには垂涎のキャストであることはわかった。デザインが格好良いというのも共通見解か。
 こっそり「アベンジャーズ/エンドゲーム」速報もあったが、内容はネタバレに配慮したものなので、特筆すべき記載なし。
 
 

*1:寄稿募集のページですが、一番情報がまとまってそうだったので掲載しています

2019/04/23

映画プリキュアドリームスターズ

 

無駄に見ている。ハートキャッチプリキュアNetflixから消えており、代わりと言ってはなんだが魔法つかいプリキュアが来ていた。ハートキャッチを見たいのだが。おじさんとしては。

 

虚無に虚無を重ねて、毎日を過ごしている。やり過ごしている。

歯を磨く時は歯間ブラシもね。メンテナンスの時にお姉さんから「もうちょーっとだけ、歯と歯の間も丁寧に磨いたほうがよいと思いますよ。今回は漂白したらキレイになりましたけど。」と言われてしまった。うざメイドでもあった一コマ。「もうちょーっとだけ、おトイレの後は丁寧に拭いたほうが良いと思いますよ。今回は漂白したらキレイになりましたけど。」

 

ノンデザイナーズ・デザインブックを読んでいる。デザインルール。まだ「近接」の原則までしか読んでいないけれども、とてもためになる。こういった自己啓発的な内容は英語作者のものを読むに限る。適当な距離感が、しがらみなく内容だけを取り込める。日本人作者だと、どうにも学歴とか経歴とか、そこらへんが鼻についてニュートラルに読み進めることができない。

 

第一級陸上無線技術士か、電気通信主任技術者か、そこらへんの受験記録というか、合格体験記をまとめてみようと思う。そろそろほとぼりも冷めたので、書いても身バレしないだろうし。ここらへんの業界の人たち、全く受験記録とかをアップしていなくて、すごい受験勉強に苦労した記憶がある。

 

世界はDocking☆Docking!

 

扶養とか控除とか、お金を払ったり貰ったりして生きていくことに汲々としている。生々しいばかりで嫌になる。こんなつもりではなかったのに。

研究室時代の先輩方や先生方に会う機会がここ数ヶ月で何度かあった。ちゃんと研究していたり、Pythonなんかをやっていたり。きちんと前に進んでいる感じを受けて、まったく自分が恥ずかしい限りだった。僕が真剣になれているのは下半身まわりだけだ。いや、自らの下半身についても、全く真剣ではない。

そもそも生存バイアスというやつか、同窓会なんかに来れる人間は、少なくとも恥じることが無い人生を送っているということなのだ。まったく羨ましい。他の人の人生を見て、羨ましい羨ましいと恨み言を連ねているだけの恥ずかしい人間にだけはなりたくなかった。面白い。他人の芝は青い。

 

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風祭中央公園こと石山緑地

 

今更ながら、Rewriteの聖地探訪を果たした。10年越し? になるのか。先人たちの舞台探訪の記録を参考にしながら、市内から車で訪問した。
あいにく冬季で駐車場やトイレが閉鎖されていたため、近くの駐車スペース?に車を停めて訪問した。駐車スペースには車が10台ほどあったのだが、なぜか石山緑地には僕たち以外誰もいなかった。
先人たちの聖地巡礼写真では、写真奥の老人介護施設が無かったので、Keyスタッフが訪問した後、しばらくしてから建設されたのだろう。時代の移り変わりを感じた。老人介護施設が、もし、ロケハンの時に写り込んでいたら、このアングルは使用されなかっただろう。そう思うと、不格好になってしまったこの写真にも、時の流れを示すという役割を負わせることができて、意味が生まれるのだろう。良くも悪くも、生きていたら意味を負う。

 

btsoken.hatenablog.com

 

 

2019/03/12

 

さてと。

 

このさてと。という文末の締め方も、元ネタが出てこない。パッとは。西尾維新だったか、と思い出していて、CARNIVAL小説版だったことを思い出した。学が飛び降りる寸前ね。この世界はこんなにも美しい、思えばそんなこと、僕たちは知っていたはずなんだ。

CARNIVAL小説版とSWANSONGとキラ☆キラと、あとは田中ロミオの作品と。トップ!2なんかも、そうだけれど、mixi──今は無き古き名──に書いていた。ひまわりの感想で坂上秋成にコメントされたこともあった。面白さで言えば、伊藤計劃虐殺器官とハーモニー。凄かった。どのようにしてか、おそらく、〈個〉の時間の喪失に伴うものだろうけれど、感動を味わえる感情が無くなっている。そのように思われる。生活は感性を殺す、特に無味なる生活は。

 

さてと。

 

結婚をするという情報を得た。知り合い? 友人? 同志? 仲間? どのように形容してよいか、しばし書いては消した。結局、主格を省いて述べることしかできない。省略こそ日本の隠微なる特性。彼の事だ。

 

結婚など、ただの社会的契約であり、たんなる手続きである。脱童貞というか、初性行為というか、肉体的接触のほうが遥かにイニシエーションであるはずだ。〈個〉の世界では。なぜだろうか。ヒトは群れる生き物だからだ。異物を排除する生き物だからだ。ヒトですか? 私は? 

排除とは相互作用である。


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役に立つ文章では無い。誰かのために書いているわけではない。内省的な文章は誰の役にも立たない。俺の陰茎も勃たない。脚韻を踏んでも意味が無い。

渡航の「俺の青春ラブコメはまちがっている」が完結したようだ。足掛け7年くらいかけたのだろうか。作中でのケータイ描写がもはや古く懐かしく感じられた。読み直したためだ。初めの頃の2巻や3巻を。内省的かつ喩えた描写が多く、よくストーリーを復讐しておかないとわからない。同じセリフを違うシチュエーションで引用するなど。12巻あたりの感想。

渡航といえば、ガーリッシュナンバートークイベントで見かけた。すげえヤンキーっぽい見た目。話し方もそれ。ガーリッシュナンバーは20代最後になんかやりてーと思って創った作品だ。その言葉を何度も思い出す。

 

俺の考える(さいきょうの)俺と、リアルライフでのよわよわな俺の差異により軽く死ねる。なんにも本を読んでいないしだからといってなにかしているわけでもない。毎日毎週毎月、何にもなれないまま朽ち果ててゆく。

特別なことなんてない。ずっとこの愛すべき退屈な日常が続いていく。

 

いま目の前に二人で泣いてる子供がいて、もし僕達が子どもを作れたとして、この絶望的な光景に子供が一人追加されることになる。そんなのは僕には堪えられない。きっと理沙もそんなこと分かっているとは思うけれど、それでもどうしようもなかったのだろう。それとも子供ができれば何か変わるという希望に縋るしか無かったのだろうか。知らないうちにそんところまで理沙を追い詰めてしまっていたなんて、僕は薬のせいでぼんやりとした思考の中で申し訳ない気持ちになった。

 

電車の中で地図を広げた少女。どうやら電車の路線図にマーカーを引いたものらしいが、一体どこの地図かわからない。旅行中だろうか。スニーカーとリュックサック、肩までの黒髪。スニーカーの先が楽しげにリズムを刻んている。 

平成展2000-2009-トークセッション-セカイ系の系譜 2019/02/08

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「平成展2000-2009 トークセッション #セカイ系の系譜」の開催日時決定 | 株式会社カイユウ - KAI-YOU inc.

 

(移動中でスマホからの未確認投稿。後で適宜リンクなど直したい。*1

 

めちゃくちゃ、迷った。六本木ヒルズ? の52階? なんて初めて行った。無駄に屋上庭園まで行って「恋人たちの聖地」みたいなフォトスポットを眺めて、さすがに、ここでセカイ系トークショーはやらないよな……となった。

 

当日の様子は、Togetterにまとめられており、俺のツイートもけっこう再録されているのでだいたいこれを見てもらうと分かるかな? 雰囲気は。

 

平成展2000-2009 トークセッション「セカイ系の系譜」 (3ページ目) - Togetter

 

トークテーマは「二人の出会い」「セカイ系とは」「セカイ系の後は?」みたいなもの。良く言えば無難なテーマ。

太田克史竜騎士07トークなので、どうしてもひぐらし以降ゼロ年代後半がメインだった。とは言え、ゼロ年代が終わってもう10年以上経つわけで、太田克史が言っていたように、完全にインターネット老人会の昔話だった。セカイ系という(燃えやすい)定義はひとまずファジーなままにして、トークショーの主催になったカイユウの平成展もそうだけれど、イリヤの空とか最終兵器彼女とかほしのこえとか、あとはエヴァとかエウレカとかフリクリとか、そこらへんにかかる言及がもう少しあれば良かったのになあ。

まさかの奈須きのこの話ばっかりで、というのも竜騎士07がガチガチの同人畑の人間なので登壇者二人の焦点がそこしか無いのだけれど、もう少し太田克史に寄せてもらったほうが個人的には面白かった。一方で、おそらくなのだけれども、竜騎士07うみねこあたりからのファンも多いようで(Togetterをまとめてくださったのも竜騎士07のファンのようだ)、竜騎士07ファンにとっては素の竜騎士を拝める楽しいイベントだったのでは無いだろうか。

 

 トークセッション後半で、質問コーナーがあった。最初に質問した北出栞(@sr_ktd)さんの質問が素晴らしく、『平成展』そして『ゼロ年代』、『セカイ系』というタイトル内のキーワードをうまく補完できたと思う。

 

セカイ系の要素として(寂しさ、疎外感、無力感)があると思う。これについてどう思うか?
今の若い10代などの世代は、ゼロ年代の(無力感、疎外感、寂しさ)を、どうやってやり過ごしていると思うか? セカイ系は無力感の行き着く先だった。

 

セカイ系の(寂しさ)は新海誠が秒速で回収した。太田克史

 

以下はジョークだけれど、今の若い人(これはおそらくだけれど、うみねこあたりからの竜騎士ファンを多分に含む)は寂しさへの寄り添いを求めていない。ヒカキンの動画を見て、憧れる小学生と一緒。俺達が愛した寂しさ(感傷マゾ)は、やはりゼロ年代の遺産に成り果てた。かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)さんの感傷マゾ本が去年末の冬コミで出てたけど、すでに最先端の時流からは外れた所に位置しているのかな、と寂しく思った。

Q「ゼロ年代の寂しさに寄り添ってくれたのがセカイ系とのことで、2010年代以降生きる若者の寂しさは一体何が救ってくれると思いますか?」
太田編集長「ストロングゼロです」

 

合計三人ほど質問してた。二人目の方は竜騎士07に対して、Rewriteのことをどう思うか? みたいなもの。三人目の方は太田さんに対して、流行に合わせた作品を書いたほうが良いのか? みたいなもの。

 

 

フリクリオルタナプログレのそうじゃない感も、セカイ系の寂しさ、無力感の現実性が薄れていることが一因なのかもしれない。

 

*1:2019/02/17追記。@sr_ktdさんと@wakさんのブログへのリンクを追加

野乃はな を模写している31歳男性の午前2時

深夜にニチアサアニメ見て、下手くそな絵を鉛筆で方眼紙に描いて、フィギュアに癒やされて。こんな三十歳。

 

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キューティーフィギュア第一弾 野乃はな

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野乃はな でGoogle画像検索して模写。

 

休日の深夜にアニメを見ながら模写。キューティーフィギュアもかわいい。野乃はなには救われている。オギャみ。

三十歳を超えて、何をやっているのだろう、という虚無感が出るかな、と思ってやってみたら、案の定、結構な虚無が生成できた。今日は成人の日。年若い人たちが楽しそうにしているのをツイッタ越しに観測する。なかなか。

大丈夫、二十代はあっという間だったけど、三十代はそれに輪をかけてあっという間だそうだから。東京タラレバ娘によると。

生きる意味はあまり無い。いつの間にか2018年が終わった。はてなブログを始めてから(といっても、はてなダイアリー時代から含めて、だが)十年近く経過しているようだ。ウケる。2009年くらいから始めたようだ。あけましておめでとうございます。嬉しいね。2018年も呼吸して糞して酒のんで反吐を撒き散らしていたら、あっという間だった。2018年は、記録によると、記事を13個書いたらしい。クズみたいな記事を13個。2016年は記事を1本も書いていなかったから、だいぶ進歩したようだ。記事の数は増えたが、アクセス数は対して伸びていない。アクセス数なんて気にしてもしょうがない。というか、そんなもの狙えるコンテンツが無いのだが。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心。何にもならない自意識を死ぬまで抱えて溺れてゆく。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。

昨年のコミケには行けませんでした。あーあー。石川博品は午前中に売り切れちゃうし、アニクリとか感傷マゾとかいろいろ行きたかったけれど、心がやられていて、行けませんでした。心がやられていると、お酒が美味しい。意識を殺すから。

模写、十年ぶりにやったけれど、少しは心がスーッとする。絵を描くこと、感想をまとめること、作品を消化する行為として自分の中で大事にしている。作品を見るだけではなく、なにか作品に対するコミットメントのログを残すこと。不思議に思うけれど、大切に感じる。

アパートの前の渡り廊下を住人が歩く気配。薄い壁越しに足音が響く。渡り廊下の蛍光灯が瞬く。切れかけなのかもしれない。若いカップルだった。引っ越しの時に挨拶された。表札を見ると男性と女性で名字が異なっていたので、まだ結婚されていないのだろう。これから結婚するのかどうか、そもそも結婚しても姓を同じくするかどうかはわからない。郵便ポストにはリスのイラストを添えた表札が出ていた。近頃のラベルライターにはこんなイラストも含まれているのか。よくできているなあ。女性は笑顔がよく似合う黒髪で、男性は感じの良く背の高いジーンズだった。同棲生活、というものがよく似合う二人だった。幸せなのだろうな。

巷ではFate / Stay night Heaven's Feal 第2章 Lost Butterflyを見た人たちの感想が飛び交っている。ハハッ。巷と書いたが、俺のTLのこと。だってこの3日間、部屋から出ていないから。おうちサイコー。特に深夜のおうちは全能感が満開になる。

Revisionsっておもしれーな。リヴァイアスっぽさ。漂流みたいな状況に落とし込まれた高校生たちと、鬱屈した高校生活を送っているクソナードが持つ英雄願望。そのうちレイプも出てくるんじゃねーのか。今3話「守護者たち」。調子に乗ったクソナードが、まんまと陽動にひっかかったり、他のストリングパペット?をあっさり乗りこなされたりして自信を喪失している。あと、黒肌白髪姉さんはどう考えても深見真の犯行だな。ついでにレズだったりして。今は第4話「第1次帰還計画」。キタキタ。拘束した女を前にして「どうせ引き渡すんだから、少しくらい楽しんでも良いだろ(ゲス顔)」。

 

もうねよう。

 

2018/11/24と2018/11/30

※写真はイメージであり、本文と写真は関係ありません。

ダリフラを見てる。20話くらいから。結局、夏は忙しくて見れなかったんだよなあ。

忘れないように、と思ってメモしていることがある。プライベートなことなので、どこにも残していないが、なかなかに興味深くて、どこかに残しておきたい。そう思う。

気づいたら31歳で、なんかもう何も残していない感じがすごいですね。
同い年や、年下の人間さんたちがすごい仕事をたくさんやっているという報告を聞く。聞くたびに誇らしい気持ちと、自らを省みて不甲斐ない気持ちになる。
時間を無駄にしてきたツケは、ある時突然にというわけではなく、息苦しさが足元から上がってくるように迫ってくるのだ。そうか。

時間の経過の感覚がもうひどい。ひどいということばでは何も伝わらないと思うので、少し補足しなければならない。この「~~しなければならない」という言い回しを頻繁に使用する人間は、思い込みや強制や社会規範などのルールからの逸脱を恐れる傾向があり、幸せに生きづらいのだとか。まあ幸せに生きやすい人間なんて顔が良いか、金があるか、くらいだから。「一年」の重みがどんどん軽くなっていっている気がする。十年前の「一年」は、それはそれは重いもので、長いもので、一年違えばぜんぜん違う人間になっていた。だって、部活やサークルの一年先輩って、とっても大人に見えたものでしょう? それが今では、また来年やれば良いや、なんて軽々しく思ってしまう。来年までの時間の長さは、それこそ三十年前から変わらないのに。慣れて時間に対する繊細さを失ってしまうのは、嫌なことだなあ。

神社やお寺に良く行くようになった。もうずっと昔からの習慣だと思っていたけれど、写真を見ると、どうもこの一、二年の間にはじめたことのようだ。神社もお寺も、基本的にはぼっちに優しい。一人で居ても、それが当然である。神社なんかは、境内にいろんな神社があって、石や鏡や縄なんかのアトラクションもあって、たいそう楽しい。説明書きもたくさん書いてあるから暇も潰せる。

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太郎坊宮 阿賀神社(滋賀)。天狗で有名だとか。魔女の絶対道徳でも引用されてた。

 

特に意味はなくて、うろうろしているだけなのだけれど、これはこれで徳を積んだ気になるし、写真なんかも撮ると、いっぱしの観光を気取っていられる。森田季節のてらめぐりぶ! じゃないけど、コンビニよりも寺社のほうが多いのだから、なかなか行かない手は無い。御朱印帳なんていうのもあるみたいだけれど、それはまだいいかな、なんて思う。

 

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山寺(山形)。のんびりできてよかった。景色も悪くなかった。

映画を見た。アニメの映画。ゴジラ。怪獣惑星のほう。の三部作目にして完結編を見た。星を喰うもの、だっけ? サブタイトル。全然覚えていないし、上映中は、ギドラのもたらす滅びと、その反復される死のイメージから、自分自身の人生とその最後について考えていた。僕自身もいずれ死ぬ。死は、そのイメージ自体は二年前に受容して、というか、諦めを受け入れて、「長い眠り」みたいなものだなあ、と観念している。とはいえ、観念していることと、喜んで迎え入れることは別であり、やっぱり、この連続した意識が終わってしまうことは嫌だなあ、なんて思った。このあたりの思考については、ちょうど、死を連想させるシーンを目にしていたときに考えていた。ハルオが連絡船に乗ろうとして、両親の乗った船がゴジラに落とされる、その繰り返される映像や、ゴジラ打倒のために犠牲になった死者の列(これは、ちょっと虐殺器官っぽい)、なんとかとか言った、母船から口減らしのために地球へ降りようとしたタニ・ユウコの祖母だか祖父だかの回想。死と合わせて、アニゴジのテーマは、不完全な人間とその生き方。アイゼンフリューゲル(全二巻)の主人公の生き方、それに親しいものを感じた。同じ、脚本が虚淵玄。アイゼンフリューゲルでは、ラストシーンで、竜との速さ比べのために、主人公がジェット機に乗って、片道飛行に旅立つ。それを誰も止めることはできず、また、その生き方こそが、その、自分の命を天秤に掛けてでもなお重い「夢」「理想」への執着こそが人間である。翻って、アニゴジの三部、それぞれのラストシーンはすべてこの、理屈ではない信念への固執、を描いている。それが、ゴジラというSF怪獣映画を下敷きにしたこの映画では、非論理的なハルオの行動につながり、観客に違和感や嫌悪感を覚えさせる原因にもなっている。アニゴジの評価が低いのは、この「ゴジラ」というタイトルの歴史から当然に想起される前期待を悪い意味で裏切ってしまっているためだと思う。特撮のゴジラ好きは、僕も含めて、確かに期待外れだった。とはいえ、怪獣惑星ゴジラという一つのお話としては、見るところは十分にある。感想ブログをいくつか巡ったが、皆、「ゴジラ」の名前さえなければ面白いと言っていた。そのとおりで、ゴジラの新解釈として、怪獣ではなく、背景としてのゴジラ、これは、アイゼンフリューゲルでの「竜」や「戦争」の立場となるが、としてみれば、アニゴジがすんなり腹に落ちてきた。アニゴジ一作目から同じだけれど。アニゴジ一作目の怪獣惑星では、人間として不可能の象徴であるゴジラに対し、理屈では戦いを放棄した方が徳であるのに、それでもゴジラに「理不尽に」立ち向かう人間の強さを描き、アニゴジ二作目の決戦起動増殖都市では、論理的には人間をやめてメカゴジラと同化することでゴジラを倒せるのに、「理不尽に」人間性、タニ・ユウコへと執着し、ゴジラ打倒の機会を逸する。そしてアニゴジ三作目の星を喰うものでも、バルチャーの復活による人間文明の復帰を「理不尽に」捨てて、ゴジラへの執着にすがりハルオとユウコはその生命を燃やす。どうにも、生きるということは、いっときのどうしようもない感情にその身を焦がしてしまうものなのである、芋粥(芥川龍之介)みたいなことなのだろうか。それこそが生きることだと。楽園追放でももまた、享楽的に、管理から逃れることこそが人間たらしめるものだというメッセージを感じた。

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淡島(静岡)と夕焼け。めちゃくちゃキレイ。

SSSS.GRIDMANが面白い。当然。円谷の版権うんぬんで、半ばネタ的に利用された電光超人らしいけれど、アニメとしてよくできていて、さらに言うと、メカは完全に勇者シリーズ系列だし、演出はいちいちエモいし、人間関係はLGBTだし。見れば見るほど、引き込まれる。あとは、主人公の裕太の記憶喪失とか、果たして、生きている人間がいるのか、とか、メタい伏線がいくつも張られているのも楽しみ。果たして1クールなのか2クールなのかわからないけれど、まだまだこれからが楽しみ。

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烏森神社(新橋)。いつもの飲み屋街も朝焼けの下で見ると清浄。

 虚無ばかり、アニメの感想ばかりの日記。そんなはずもなく、とりあえずは人間の面を被って生活しているのだから、もう少し書きたいこと書いておくこと記録しておくこと忘れてはいけないこと、があるはず。そう、このエントリの冒頭にも書いた通り、プライベートなこと。プライバシーなんて、エッチなこというのは、ミァハだけだよ、とキアンは顔を真っ赤にするだろうけれど、2000年も20歳を迎えるこの時代においても、未だプライバシーはカーテンと同じくらいの意味しかない。人間がつながることのできるテクノロジーはいくつも開発されているけれど、政治と文化と社会がその結節点となるには人間は十分な強度を有していないと声高に叫ぶ。つながることのできるテクノロジーが明らかにするのは、そもそも人間と人間との間にはATフィールドなんてなくて、人間の意識の個室なんてものは存在しないということ。唯一無二で絶対だと思っていた「自我」なんてものはなくて、反射による行動の集積が、他者からだけではなく、ひいては自己とみなされるものからさえも、事後的に認識しているに過ぎない。自己とされる聖域に、決心して踏み入れてみればがらんどうだった。その絶望を踏み越えて、忍は戦った。最果てのイマの価値は、その、人間を捨てること、人類を消費することをためらわない超越者たる忍が、人類を救うことを決意する理由が、人間の代表である章二の犠牲であること。そして、忍を救うのが、人間ではない腫瘍生命体であるイマの、種としての生存本能から外れた自己犠牲の精神であること。

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横浜熊野神社(神奈川)。境内が広い。

記録しなくてはならないことは、然るべきレイヤーに然るべきロックを掛けて残しておきなさい、ということ。

それができれば、そのように合理的に判断が下せられれば、それははたして意識と呼べるのだろうか。理不尽こそが生きること、意識ということなのでは。

第27回文学フリマ東京 2017/11/23

行ってきました。
一年ぶり二回目。順調に経験(?)を積めている。嬉しいものだ。関東に住んだ甲斐がある。
体感だけれど、昨年*1よりも人が多いように感じた。順調にイベントとしても成長しているということだろうか。

 

 

購入したものとかフリーペーパー

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「感傷マゾvol.01」は買おうと思ったけれども、売り切れだった。午後二時くらいに行ったのだが、すでに遅かった……。見本誌コーナーでざっと中身を立ち読みしたところ、やはり面白そうだった。新海誠と「果てしなく青い、この空の下で…」などのキーワードで感傷マゾを語る切り口は非常に面白い。ほしのこえ、あたりからの話も展開されていたら、と思うと読みたくなる。

かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン on Twitter: "感傷マゾって何だよと思われそうなので、文学フリマの会場で飾るための説明書きを作った。… "


他に、フリーペーパーで「新刊が落ちた話」や、ほしのたねのなんか、などをもらってきた。「新刊が落ちた話」って、サークル名なのか、書名なのかわからないけど、「虚無」ってワードがブースで目立っていて、めっちゃ気になった。

 

 

読んだ論考(速報)

飛浩隆に聞く「働きながら書き続ける10の方法」 SCI-FIRE 2018 特集 ライフハック

SCI-FIREは、前回文フリ東京でも買った気がする。宮内悠介インタビューだっけかな。まだ読んで居ないけど。一年寝かせている計算か。それにしても、「ヨハネスブルグの天使たち」は面白かった。
今回は、飛浩隆に聞く「働きながら書き続ける10の方法」というインタビューにつられて購入した。見本誌に、付箋がされていて、飛浩隆インタビューのページなど、見やすく展示されていたのも印象強い。購入につながった。インタビュー自体も良くできていた。恥ずかしながら、飛浩隆については詳しく無かったのだが、*2、仕事との調整*3や、家庭及び家族の犠牲(家族サービスなどはできないとのこと)を含めて、『とにかく書くしか無いですよ』という身も蓋もない話がざっくばらんな形式でまとめられていた。

平日は二時間くらいしか時間がない。だらだらテレビを観たり、録りためた映画を観たりするわけには行きません。外で酒も飲めないし、家で晩酌することもないです。睡魔と戦いながら書いて、あとで読み返すとひどい文章だけどそうやってじりじりすすめていく。

編集者とのやりとりについても、興味深いことが書いてあった。有馬トモユキが「いいデザイナーは、見ためのよさから考えない」でも同じようなことを書いていた。目標を共有するというか、手段ではなく、さらにその先の目的を目指して協力すること。”パイを広げる”ということ。

でも彼が出してきた改稿案に私は全く納得できなかった。それをそのまま取り入れても、私の小説にはならない。
 しかしそもそも彼が何を不満に感じているのか。その不満は彼がいうとおりに書き直したとして、それで本当に癒やされるのか。たぶん違うだろう、と思ったのです。彼のその不満の真の理由は別のところにある。


<エロマンガの読み方>がわかる本 思い出を共感に開くために ゴージャス宝田 「キャノン先生トばしすぎ」 新野安

 雑誌自体は、ゴージャス宝田の「キャノン先生トばしすぎ」論(新野安)に惹かれて購入。文フリ会場をぶらぶら流して居たところ、「エロマンガ」の文字につられて足を止めたところに、「足を止めたならこれも縁ですよ! 観ていってください!」*4と言われて見本誌の目次を眺める。”キャノン先生トばしすぎ”の文字を見て、購入を決定。「『キャノン先生トばしすぎ』が好きなんですよねー」と言ったら、隣のサークルさんも「私も一冊良いですか? キャントば、好きなんですよー」って言い出してきた。面白い。

当然、

思い出を共感に開くために ゴージャス宝田 「キャノン先生トばしすぎ」 新野安も、

とても興味深く読ませてもらった。かくいう僕も、「キャノン先生トばしすぎ」を読んで、エロマンガの凄さというか、熱さに感動した一人だ。
見出しから論旨を拾うと、キャントばの魅力としては、「問題の抽象化
入れ子の構造」「ポルノ性の不在」が挙げられる。どれも言われてみるとそのとおり。

問題の抽象化

「エロとか恋愛とか若い頃に感じる漠然とした疎外感みたいなモノは年代を問わず不変のテーマ」

 

入れ子の構造

貧太はイジメの中で失ったアイデンティティを当時のエロマンガに見出した。キャノン先生はセックスへの興味を周囲に拒否されたが、貧太のエロマンガに助けられる。二人の物語は一つに重ねられていた。

 

ポルノ性の不在

エロマンガについてのエロマンガ」としての『キャントば』にとって、エロマンガは、ありのままの自分の存在証明である。必ずしもエロティシズムの表現媒体ではないのだ。


アニクリ vol. 9.5 リズと青い鳥
少女の笑いと救い/傘木希美はなぜ笑ったのか? かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(wak)

理科室と音楽室という場面から、民俗学者常光徹*5を援用しながら、非日常と日常の違い、そしてその転換を論じている。ところどころ、リズと青い鳥を見たときの鳥肌感を思い出しながら読んだ。

ちなみに、このアニクリ vol. 9.5は夏コミで購入できなかった。やっと買えた。嬉しい。

*1:2017年

*2:兼業作家であることも初めて知った

*3:かなりハードな時期もあったらしい

*4:今思うと、この方が新野安さんなのだろうか

*5:初めて知ったのだが、「学校の怪談」などの口承文芸の研究者らしい