six-9のブログ

おっさんのブログ。エロゲとかアニメとか。

2018/11/24と2018/11/30

※写真はイメージであり、本文と写真は関係ありません。

ダリフラを見てる。20話くらいから。結局、夏は忙しくて見れなかったんだよなあ。

忘れないように、と思ってメモしていることがある。プライベートなことなので、どこにも残していないが、なかなかに興味深くて、どこかに残しておきたい。そう思う。

気づいたら31歳で、なんかもう何も残していない感じがすごいですね。
同い年や、年下の人間さんたちがすごい仕事をたくさんやっているという報告を聞く。聞くたびに誇らしい気持ちと、自らを省みて不甲斐ない気持ちになる。
時間を無駄にしてきたツケは、ある時突然にというわけではなく、息苦しさが足元から上がってくるように迫ってくるのだ。そうか。

時間の経過の感覚がもうひどい。ひどいということばでは何も伝わらないと思うので、少し補足しなければならない。この「~~しなければならない」という言い回しを頻繁に使用する人間は、思い込みや強制や社会規範などのルールからの逸脱を恐れる傾向があり、幸せに生きづらいのだとか。まあ幸せに生きやすい人間なんて顔が良いか、金があるか、くらいだから。「一年」の重みがどんどん軽くなっていっている気がする。十年前の「一年」は、それはそれは重いもので、長いもので、一年違えばぜんぜん違う人間になっていた。だって、部活やサークルの一年先輩って、とっても大人に見えたものでしょう? それが今では、また来年やれば良いや、なんて軽々しく思ってしまう。来年までの時間の長さは、それこそ三十年前から変わらないのに。慣れて時間に対する繊細さを失ってしまうのは、嫌なことだなあ。

神社やお寺に良く行くようになった。もうずっと昔からの習慣だと思っていたけれど、写真を見ると、どうもこの一、二年の間にはじめたことのようだ。神社もお寺も、基本的にはぼっちに優しい。一人で居ても、それが当然である。神社なんかは、境内にいろんな神社があって、石や鏡や縄なんかのアトラクションもあって、たいそう楽しい。説明書きもたくさん書いてあるから暇も潰せる。

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太郎坊宮 阿賀神社(滋賀)。天狗で有名だとか。魔女の絶対道徳でも引用されてた。

 

特に意味はなくて、うろうろしているだけなのだけれど、これはこれで徳を積んだ気になるし、写真なんかも撮ると、いっぱしの観光を気取っていられる。森田季節のてらめぐりぶ! じゃないけど、コンビニよりも寺社のほうが多いのだから、なかなか行かない手は無い。御朱印帳なんていうのもあるみたいだけれど、それはまだいいかな、なんて思う。

 

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山寺(山形)。のんびりできてよかった。景色も悪くなかった。

映画を見た。アニメの映画。ゴジラ。怪獣惑星のほう。の三部作目にして完結編を見た。星を喰うもの、だっけ? サブタイトル。全然覚えていないし、上映中は、ギドラのもたらす滅びと、その反復される死のイメージから、自分自身の人生とその最後について考えていた。僕自身もいずれ死ぬ。死は、そのイメージ自体は二年前に受容して、というか、諦めを受け入れて、「長い眠り」みたいなものだなあ、と観念している。とはいえ、観念していることと、喜んで迎え入れることは別であり、やっぱり、この連続した意識が終わってしまうことは嫌だなあ、なんて思った。このあたりの思考については、ちょうど、死を連想させるシーンを目にしていたときに考えていた。ハルオが連絡船に乗ろうとして、両親の乗った船がゴジラに落とされる、その繰り返される映像や、ゴジラ打倒のために犠牲になった死者の列(これは、ちょっと虐殺器官っぽい)、なんとかとか言った、母船から口減らしのために地球へ降りようとしたタニ・ユウコの祖母だか祖父だかの回想。死と合わせて、アニゴジのテーマは、不完全な人間とその生き方。アイゼンフリューゲル(全二巻)の主人公の生き方、それに親しいものを感じた。同じ、脚本が虚淵玄。アイゼンフリューゲルでは、ラストシーンで、竜との速さ比べのために、主人公がジェット機に乗って、片道飛行に旅立つ。それを誰も止めることはできず、また、その生き方こそが、その、自分の命を天秤に掛けてでもなお重い「夢」「理想」への執着こそが人間である。翻って、アニゴジの三部、それぞれのラストシーンはすべてこの、理屈ではない信念への固執、を描いている。それが、ゴジラというSF怪獣映画を下敷きにしたこの映画では、非論理的なハルオの行動につながり、観客に違和感や嫌悪感を覚えさせる原因にもなっている。アニゴジの評価が低いのは、この「ゴジラ」というタイトルの歴史から当然に想起される前期待を悪い意味で裏切ってしまっているためだと思う。特撮のゴジラ好きは、僕も含めて、確かに期待外れだった。とはいえ、怪獣惑星ゴジラという一つのお話としては、見るところは十分にある。感想ブログをいくつか巡ったが、皆、「ゴジラ」の名前さえなければ面白いと言っていた。そのとおりで、ゴジラの新解釈として、怪獣ではなく、背景としてのゴジラ、これは、アイゼンフリューゲルでの「竜」や「戦争」の立場となるが、としてみれば、アニゴジがすんなり腹に落ちてきた。アニゴジ一作目から同じだけれど。アニゴジ一作目の怪獣惑星では、人間として不可能の象徴であるゴジラに対し、理屈では戦いを放棄した方が徳であるのに、それでもゴジラに「理不尽に」立ち向かう人間の強さを描き、アニゴジ二作目の決戦起動増殖都市では、論理的には人間をやめてメカゴジラと同化することでゴジラを倒せるのに、「理不尽に」人間性、タニ・ユウコへと執着し、ゴジラ打倒の機会を逸する。そしてアニゴジ三作目の星を喰うものでも、バルチャーの復活による人間文明の復帰を「理不尽に」捨てて、ゴジラへの執着にすがりハルオとユウコはその生命を燃やす。どうにも、生きるということは、いっときのどうしようもない感情にその身を焦がしてしまうものなのである、芋粥(芥川龍之介)みたいなことなのだろうか。それこそが生きることだと。楽園追放でももまた、享楽的に、管理から逃れることこそが人間たらしめるものだというメッセージを感じた。

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淡島(静岡)と夕焼け。めちゃくちゃキレイ。

SSSS.GRIDMANが面白い。当然。円谷の版権うんぬんで、半ばネタ的に利用された電光超人らしいけれど、アニメとしてよくできていて、さらに言うと、メカは完全に勇者シリーズ系列だし、演出はいちいちエモいし、人間関係はLGBTだし。見れば見るほど、引き込まれる。あとは、主人公の裕太の記憶喪失とか、果たして、生きている人間がいるのか、とか、メタい伏線がいくつも張られているのも楽しみ。果たして1クールなのか2クールなのかわからないけれど、まだまだこれからが楽しみ。

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烏森神社(新橋)。いつもの飲み屋街も朝焼けの下で見ると清浄。

 虚無ばかり、アニメの感想ばかりの日記。そんなはずもなく、とりあえずは人間の面を被って生活しているのだから、もう少し書きたいこと書いておくこと記録しておくこと忘れてはいけないこと、があるはず。そう、このエントリの冒頭にも書いた通り、プライベートなこと。プライバシーなんて、エッチなこというのは、ミァハだけだよ、とキアンは顔を真っ赤にするだろうけれど、2000年も20歳を迎えるこの時代においても、未だプライバシーはカーテンと同じくらいの意味しかない。人間がつながることのできるテクノロジーはいくつも開発されているけれど、政治と文化と社会がその結節点となるには人間は十分な強度を有していないと声高に叫ぶ。つながることのできるテクノロジーが明らかにするのは、そもそも人間と人間との間にはATフィールドなんてなくて、人間の意識の個室なんてものは存在しないということ。唯一無二で絶対だと思っていた「自我」なんてものはなくて、反射による行動の集積が、他者からだけではなく、ひいては自己とみなされるものからさえも、事後的に認識しているに過ぎない。自己とされる聖域に、決心して踏み入れてみればがらんどうだった。その絶望を踏み越えて、忍は戦った。最果てのイマの価値は、その、人間を捨てること、人類を消費することをためらわない超越者たる忍が、人類を救うことを決意する理由が、人間の代表である章二の犠牲であること。そして、忍を救うのが、人間ではない腫瘍生命体であるイマの、種としての生存本能から外れた自己犠牲の精神であること。

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横浜熊野神社(神奈川)。境内が広い。

記録しなくてはならないことは、然るべきレイヤーに然るべきロックを掛けて残しておきなさい、ということ。

それができれば、そのように合理的に判断が下せられれば、それははたして意識と呼べるのだろうか。理不尽こそが生きること、意識ということなのでは。