読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

six-9のブログ

おっさんのブログ。エロゲとかアニメとか。

『暗い部屋』読後メモ-非道徳な題材を正面から飾らずに描写する誠実さ

駄目だわからん。だけど感動した。
amazon:暗い部屋*1
2009年7月に発売中止となった、(18禁ビジュアルノベルライターの瀬戸口廉也と同一と噂される)唐辺葉介の小説をノベルゲーム化したもの。プレイ前は「小説の方が良いなあ」などと思っていたのだが、ノベルゲームとしての音楽・背景といった演出が思いのほか良かったので、今はノベルゲームとして形になって良かったのかな、と思っている。
内容は、CARNIVAL小説版あとがきの、鶏が自分の卵を狂喜して食べる「あの狭い飼育小屋みたいな世界」の話。基本的にいつもの唐辺葉介(=瀬戸口廉也)だが、その純度が99.9999%ほど。読後の感想が「救いが無い」となるのもいつもどおり。みんな一生懸命なのに、みんな不幸になる。近親相姦をモチーフとしている点はCARNIVAL(ゲーム版+小説版)に似ている。ただし、今作はこれまでの作品とは異なり、カタルシスがあまり感じられないように思う。それは供述という形をとっているため、唐辺葉介に独特の現在形での語りが全くなく、どこか他人事のような白々しさが文章全体から漂っているためだろう。その分、しかしながら、より精緻に、真摯に、真正面から子供が子供を生み出す不幸について、つまり親が子供を食い物にする悲劇について誠実に描いていると感じた。唐辺葉介作品の登場人物たちはよく、生きることにたいして誠実さ、とか真面目さ、という事について語る。生きづらくなるほど真摯に考える。それはきっと作者の生きることに対する真摯さの投影であるのだろう。その真摯さが好ましく、また真摯に生きることと幸せになることの両立について、その可能性にどの作品でも迫っているような気がして、僕は毎回彼の作品を読んでいる。今作は、前述したとおり、その可能性を極限まで詰めた作品のような気がする。
しかしながら、(まだ少なくとも僕には)今作のテーマはこんな簡単に一言で言えない。なんとなく親とは何か? 子供とは何か? という話をしたいのだろう、と感じるのだが、具体的にどのような問題提起をしているのか、よくわからない。
このよくわからなさはつまるところ面白さであり、再読への情熱がここから生まれる。少なくともこれから読み直すに耐えうるだけの強度を持った作品であることは間違いない。

以下読後メモ。

  • 最近SWAN SONGを再プレイした僕の脳内では「精太郎と季衣子が、分かり合えたのか、分かり合えなくとも、同じ思い、方向を向くことができたのだろうか?」という疑問が渦巻いている。言い換えると、マリア像を立て直した司と柚香のようなカタルシスを、譲治の自殺後の精太郎と季衣子にも見ることができるのだろうか? ということだ。マスクをつけて立ち上がった季衣子は、確かにかつての精太郎と同じ側に来てしまった。しかし、その時点では、すでに精太郎は寿子とすごした部屋の窓を壊し、言葉を回復し、「負けてたまるか」という気持ちになってしまっている。やはり、二人の心は通い合うことはなかったのだろう。それは、最終章において二人が分離されて供述を取られていることからも読み取れる。しかし、二人が川べりで(かつて買い物帰りに焼き鳥を買食いしながら歩いた川べりで)風を感じるシーンからは、二人ともがわかりあえずとも、つまり同じ認識を持てずとも、共に心地良い、と感じることが出来ていたのではないか、と一抹の期待をいだいてしまうのである。
  • 暗い部屋の元ネタはカメラ・オブスクラ*2で、ピンホールカメラ、つまり歪みなく事物を観察する装置、という含意もあるのだろう。
  • 表紙の少女は、読んでいる途中では季衣子かと思っていたが、読後考えてみるとどうにも寿子/耀子の双子姉妹を意図しているようだ。精太郎に絡み付いている無数の手は、女性の手だ。精太郎の体中を固定している無数の手は、彼に父/夫/息子の無数の役割を求める寿子の願望であり、不幸な甥/自分に感謝する被害者の役割を押し付ける耀子の欲望である。少女の腕に抱かれている人形はまさに精太郎であり、目隠しをされる、そのリボンが少女の腕に巻かれている、まち針をさされている、というのは精太郎を制御しようとする少女の意図の表出である。

*1:Amazonへのリンクを貼りましたが、公式通販http://www.ringo-electron.com/で買うと『PSYCHE』の元ネタになった30p程の短編小説が付いてくるので、公式通販の方をおすすめします。

*2:カメラ・オブスクラ - Wikipedia